花神 司馬遼太郎 新潮文庫
幕末についてすごく興味を持って色々調べたり各地に行っているのですが、大村益次郎(村田蔵六)という人物については詳しく知りませんでした。大砲を設置した人物として教科書に出ていた気がします。
大村益次郎(村田蔵六) 参照:wikipeidia |
維新を彼を通して見た著書には、西郷隆盛、坂本龍馬のように光が当てられた政治家ではなく、軍事家、実務家といった情勢を把握し理を詰めるといった経営者らしい人物像を見て取れました。
河井継之助といい、日本史でそれほど取り上げられていない偉人を知れたとき時、人物から学んだ時の高揚感はもう記録せずにいれません。
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〈上〉
武士というのは規則と作法ずくめの環境であたまがかたくなっており、あたまの梁や柱をたたき折って想像を外へひろげるという力をもっていない、とみている、そこへゆくと職人であった。職人は絶えず手足の実感で物をつくっており、その実感のなかから蒸気機関を想像することはできないかと思った。(p.164)
蔵六にいわせると、まずつくりあげてみることであった。作ってうかべて動かしてみれば欠陥がぞろぞろ出てくるであろう。その欠陥を手直しする過程において、宇和島藩の造船能力が養われるのである。まずやることなのだ、というのが、蔵六の思想であった。(p.178)
(人生は、単純明瞭に生きてゆくほうがいい)
これも、蔵六の信仰のひとつである。(p.181)
本来、男性の社会にはそういう(志のような)単純な言葉が多い。そういう単純な概念のことばを一語用いるだけで、男子たるものの心の志向や、その生涯の方向を言い表してしまう。(p.299)
しかし、日本じゅうが福沢(諭吉)のように訳知りで物わかりが良すぎてしまってはどうなるか。かえって夷人どものあなどりをまねくにちがいなく、国家にはかならじほどほどに排他偏狭の士魂というものが必要なのだ、ともおもった。(p.366)
〈中〉
政治は感情であるという。
感情の中でも最も強烈なのは嫉妬であろう。(p.80)
「タクチーキのみを知ってストラギーを知らざる者はついに国家をあやまつ」
(中略)タクチーキという蔵六が発音しているのは戦術のことであり、蔵六はこれを
戦闘術と訳している。ストラギーは戦略、蔵六は将帥術と訳していた。(p.117)
「将帥は寡黙でなければならない。いちいち物事におどろいたり口やかましく感想を囀っているようなことでは、配下はそのことにふりまわされて方途に迷う」(p.120)
が、桂に対して蔵六はそれ(腹の中)がいえた。桂は創造力より理解力に富み、さらに他人のことば尻をつかまえて昂奮したり、触れあるいたりすることが全くなかったからである。(p125)
桂は天秤における支点そのものであった。桂の感覚における支点の左右がつねにこまかくふるえていて、すこしでも左なら左が重くなると、そっと右に分銅をおいて釣り合いをとろうという働きをする。天秤が無私であるように、こういう感覚のもちぬしは、つねに無私でなければならない。(p201)
眼識をあと押しする胆略がなければ人物というものは見えないであろう。(p300)
古来、勝利者は兵力の集中に成功したものであり、これとは逆に敗将たちの敗戦の共通理由は兵力の分散にあったということを、蔵六はよく知っていた。(p307)
「大軍ニ奇ナシ、という言葉がござる」
と、蔵六はいったが、そんな言葉は、古今東西にない。が、秀才を説得するにはそういう言葉を援用するに限る。(p.311)
安心させてやらねばならない。それには便法として香具師のような手も、必要である。それが、対内的軍事というものであった。軍事はまず、内部を鎮めねばならない。(p.313)
〈下〉
たしかに冷静に物量を計算すれば蔵六のいうとおりであった。
が、磁性というものが、目には見えぬながら、風をおこし、すさまじい勢いをもって旋回しようとしている。そのことを蔵六の眼力では見ぬけなかった。
桂にも、それを見ぬくについて自信がなかった。
「勢いというものが、歴史をうごかす」(p.119)
「セゴ(西郷)どんの人望好き」
と、西郷隆盛について大山巌がいったという。(中略)
が、蔵六というのはその対極にいた。
かれにとって戦略上必要であるというその必要が正義であり、必要のためにはいささかのしんしゃくもなかった。(p.296)
西郷の巨大さは好んでころぶことにあることを、勝は見ぬいていた(p.299)
軍事というのは元来、天才による独裁以外に成立しないのである。(p.323)
私心を露骨にみせはじめた革命家ほど始末にわるい存在はなく、(p.329)
蔵六は勝つための戦法を考えぬいたうえで兵を出す、ところが戦争のことだから不期遭遇戦というものがあり、そのことは蔵六の計算外になる、「計算外のことだから、手にあわぬとみればさっさと逃げてよろしい。退却して後図を策すればよいのです」というのである。(p.338)
西郷は勘定なしのしごとをやろうとし、その尻ぬぐいを大村がやった、というのだが、このことはかならずしも両者の関係の真をうがった言葉とはいえない。攻略家と政治家の機能的な相違ということで、ただそれだけのことである。(p.368)
西郷は度量や寛仁の人というだけでなく、愛嬌と含羞の人でもあった。(p.369)
蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及する仕事であり、もし維新というものが正義であるとすれば(蔵六はそう思っていた)津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわる役目だった。
中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神のしごとを背負った。(p.378)
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