20120501

本の記録 / 覇王の家

覇王の家  司馬遼太郎  新潮文庫


270年ほど続いた江戸幕府。
その礎を作った徳川家康についての物語です。

三河の土地柄、人柄がいかに日本史に大きな影響を与えたかという考察。

排他的であったり、保守といったムラ社会など。

日本人の気質や文化が良い点も悪い点も全てではないにせよ、この家康、三河地方の豪族たちが与えたものであり、270年という長い間に作り上げられた江戸文化のそういった思考が自分にも息づいているかと思うと、歴史の奥深さを感じてしまいます。


今まで読んだ司馬遼太郎の歴史小説の中でもっとも、司馬遼太郎の土地や地域文化に対する分析が垣間見える著書、面白い。

==

〈上〉


依怙地は家康のもちあじで、ただし我を張るわけでもなかった。欲しいとおもえばむしろ、我を折り、我を見せず、ながい歳月をかけて無理なく奪ってしまうということのようであり、この性格をきれいに言いあらわせば律儀ということにもなった。(p.65)


敵を眼前にみながら堂々無視できるというのは信玄の放胆さをあらわすものであり、目的のために余計な骨折りをしないというのは、戦術としてのきわだった聡明さを証拠だてるものであった。(p.84)


家康という男の驚嘆すべきところは、こういう事件(以下の2人の家来の言質によりわが子である信康を信長の命で殺さざるを得なかったこと)があったのにもかかわらず、酒井忠次と大久保忠世の身分にいささかの傷も入れず、かれらとその家を徳川家の柱石として栄えさせつづけたことであった。(中略)家康という男は、人のあるじというのは自然人格ではなく一個の機関であるとおもっていたのかもしれない。(p.191)


戦は勝頼のような猛攻一点張りでやるべきものでなく、勝頼の父の信玄のごとく無理をできるだけ避けつつ時を待ち、兵威を積みあげてやがては敵を圧倒すべきものであった。(p.207)


たとえ守将がどういおうとも、存亡の危険をおかして救いにくるということで、ひとびとはあるじとして仰ぎうるのである。(中略)自分の家来を見捨ててしまうという、武将としてはもっともなすべからざることをした勝頼は、この城の陥落と落城の惨状が世上に伝わるにつれ、かれに付属している将領たちも、
― むしわれらこそ勝頼様を見捨てるべし。
と離反するに違いない。(p.209-210)

家康がとらえている人間の課題は、人間というのは人間関係で成立している、ということであった。人間関係を人間からとりのぞけば単に内臓と骨格をもった生理的存在であるにすぎないということを、この人質あがりの苦労人はよく知っていた。(中略)家康にとってもっとも大切だったのは人間関係であり、このためにはどういう苦汁も飲みくだすというところがあった。(p.214)


信長も、いま目の前にいる老臣の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であるとおもったときには自分は自滅するということを家康は驚嘆すべき計算力と意志力をもって知っており、片鱗もそう思わないようにしていた。片鱗も ― というのは、片鱗でもそうおもえば、人の心というのは完納して酒井忠次にもひびく。(p.298)


語る本人が昂奮していては、当人の感情が報告に照り反って、冷静な伝聞は聴けないであろう。だから厠へやった。(p.363)


酒井と石川に相談しているだけで、結局は家康は自分の信ずるがままにやるのである。が、重臣たちの考えだけは十分に陳べ(のべ)させておかねば、かれらの心に鬱懐が生ずるのである。(p.369)


〈下〉

人の主というものほど、家臣に対して怨恨や憎悪、偏愛や過褒(かほう)、さらには猜疑を持ちやすいものはなく、古来、それなしで生涯を終えたものはまれであり、家康の身近な人物では織田信長はとくにそうであった。家康は信長のような卓然たる理想をもたず、日本の社会に内をもたらそうという抱負などかけらもない男だが、しかし自己を守るために自己を無私にするという、右(ここでは上)のような部分では信長よりもはるかに異常人であるといえた。(p.11)


二十年ちかい歳月のあいだ、武田の勢力に圧倒され続け、ときに滅亡の危機に瀕しながらもついに屈しなかったという履歴をもっている。さらに三方原の戦いにあっては、移動中の武田軍に対し、百パーセント負けるという計算を持ちながら、しかも挑戦し、惨敗した。この履歴は、家康という男の世間に対する印象を、一層重厚にした。(p.30)


(世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ)
と家康はおもっている。(p.77)


しかし戦術というものはその数式の基礎に誤りがある場合、どういう数字をそれに重ね、実施者にどのような精神要素をあたえても、結局は手傷が深くなるだけのものであるらしい。(p.131)


名乗りをあげるなどは、おのれ一人を誇らんとするもので、手柄はすべて殿に帰すべきものであるとおもえば、無言でいい。(p.155)


秀吉は自分の恐怖心を大切にした。(p.227)


家康の性格は陰気というわけではないにしても決して陽気とはいえなかったが、ただ猜疑ぶかくなかった。といっても、猜疑ぶかくなかった。といっても猜疑する能力がないわけでなく、とくに敵の謀略的なうごきに対してきわめて猜疑心にみちた憶測をする男であったが、ところが家臣に対しては、まるでそこだけが欠落したように猜疑心をみせたことがない。(p.235)

三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者に対しては矮小な想像力をはたらかせて裏切り者 ― というよりは魔物 ― といったふうの農村社会のそのものの印象をもった。(p.285)


もしかれが秀吉と再戦せねばならぬことがあってもそれはかれ一個が専断した私戦ではない、彼の家来、というより五カ国のひとびとの創意を執行すべく自分の身を犠牲にするのである、というふうに物事をもってゆき、ひとびとを納得させるのである。ずるいといえばずるいが、ひとの心を結束させるにはこれ以上の方法はないであろう。(p.304)


かれは自分という存在を若いころから抽象化し、自然人と言うよりも法人であるかのように規定し、いかなる場合でも自己を一種放下したかたちで外観を見、判断し、動いてきたし、自分の健康いついてもまるでそれが客観人物であるかのように管理し、あたえるべき指示をかれ自身がかれの体に冷静にあたえてきた。(p.352)