20120128

本の記録 / 宮本武蔵


宮本武蔵  司馬遼太郎  朝日文庫


司馬遼太郎、宮本武蔵も書いてたんですね。
やはり「バガボンド」の武蔵と比較しながら読んでしまいます。

宮本武蔵(wikipedia参照)


一風堂の河原成美氏も「一風堂 五輪書」においていくつか宮本武蔵の名言もあげています。

私のメモにも残っていました。
(3)の行を持って鍛と為し 万日(30)の業をもって鍛と為す

剣術だけでなく、書や絵画にも偉大な作品を残している武蔵の言葉は力強い。


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この当時の武者は意識して自分自身の伝説をつくろうとした。伝説はこういう奇行の砕片があつまってできあがるものであり、伝説がその武者を装飾し、ついにはそのものを栄達させてゆく。(p.28)


他のすべての兵法は人間能力の練磨、研ぎすましを目標としているとすれば、武蔵のそれは人
間の能力を改造しようとしていた。(p.35)


ともあれ、この時期の武蔵はちがう。彼は我が剣技を試さねばならず、剣名をあげねばならず、そのためには生死を賭けるべきであった。どの世界のどの分野の術者も、そういう時期があるのではないか。(p.43)


「小櫛(おぐし)のをしへ(教え)のこと」
というくだりがある。小櫛とは櫛のことである。「わが心に櫛をもて」と武蔵はいう。櫛をもって髪をすく。敵を知る場合もそうである。すく場合、毛の結ばれたあたりがすきにくにが、それをなんとかといてゆかねばならない、という。敵について不明の部分を残すなということであろう。(p.56)


試合は、おのれの実力よりも低く評価した相手とせねばならない。武蔵のころの牢人兵法者はすべてそうであり、兵法感覚の初動は相手へのねぶみであり、もし値踏んでなおかつ負けたときは自分の評価力不足と言えるであろう。(p.95)


他の家臣ならば愛情を持って考えてやらねばならないが、技術者は技術のみで世に立っている。技術が劣れば落命するのは当然であり、そこまで情を持って考えてやる必要はない、という意味であろう。
「小次郎も、そういうなさけを予がもてば、むしろ予に対して喜ぶまい」
と、忠興はいった。(p.157)


試合前に敵の姿は一度は見ておくべきである。そう思い、武蔵は山道をのぼっている。が、秘太刀を伝授する場所まで武蔵は見るつもりはない。その興もない。必要もない。更には他人の秘密を鼠賊(そぞく)のように偸(ぬす)み窺うことになり、武蔵にははばかる心があった。(p.164)


「身は気儘(きまま)にしておかねばならない」
と武蔵は言った。(中略)
人の目は好奇心だけのことである。武蔵の心境やいかに、いかなる準備をなすか、兵器(えもの)はどのような、というようなkとおを小うるさく観察しようとするであろう。それに対する神経のつかいかたで徒労してしまうが、そのうえそれが敵方にもれてしまってはどうにもならない。身を気儘にしておくというのはそういうことである。(p.175)


― 見切って撃つ
この見切りの兵法修行こそ眼目である、と武蔵はいうのである。
その間合いは一寸が理想である、と武蔵はいう。敵の太刀先から一寸を残す。「一寸あり」と見んぬく。(p.196)


「一つの技法、一つの道理を自分こそ見出しいたりとおもっておどろきかつよろこぶが、よくよく考えてみるとそれらについては先人がすでに道破している」(p.210)


  

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