20111202

本の記録 / 国盗り物語(前半)



国盗り物語(前半) 司馬遼太郎  新潮文庫

半月ほど前この文庫本を持って岐阜に帰省しました。
斎藤道三、織田信長、明智光秀の縁ある3人にスポットを当てた小説。

前半は岐阜を舞台にした斎藤道三が中心です。

小さい頃この戦国期が一番好きでした。
ただ斎藤道三や明智光秀の心情の機微がこれほどまでに描かれたものを読んだことがありません。もっと深く物事を掘り下げていきたい。

交通の重要な要所であったこと、肥沃な大地、史跡。
岐阜は訪れる価値のある素敵な街であると、最近ようやく気付いて来ました。

いつの日か岐阜に恩返しをしたいと思います。


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〈一〉
「草の種ならば、種によって菊にもなれば、雑草にもなる。が、人間はひとつの種だ。望んで望めぬことはあるまい。」(p.10)

(大慾の前には、小慾は殺すべし)(p.50)

 西洋軍人のことばだが、「歴史は、軍人どもが戦術を転換したがらないことを示している」(中略)「しかしながら」と、この言葉はつづく。「と同時に、歴史は、戦術転換を断行した軍人が必ず勝つことを示している」(p.80)

下心がある。奈良屋をのっとたあと、その巨富を持って、どこかの国をねらって大名になるということだ。
それには条件がある。
国の守護大名、豪族などの家紋がみだれ、仲間で相争っているという国がいい。
 そのうえ、英雄の人物がおらぬ、ということ。(p.88)

(人間を見た上で、家来にしてみよう)
 というのが、庄九郎の魂胆である。性情の忠実な、しかも一技一芸にすぐれた者を抱えるというのが武将の心得であるべきだ。(p.140)

 性根ただの勝負だ。勝負に固執しすぎる男は、集団のなかでは生きがたい。(p.141)

「いや、わしは浮世に絵をかくのだ。絹の上に絵などをかいているひまがない。」(p.276)

人の世は、あすがわからない。
というが、こういう、わけのわかったようなわからぬような、その実、生きるためになんの足しにもならない詠嘆思想は、松波庄九郎にはない。
(あす、何が来るか、ということは理詰めで考え抜けばわかることだ)(p.289)

「おれは夢想家ではない。夢想家というのは、いつも縁側にいる。縁側で空をながめている。空から黄金でも降ってくるのではないかと思っている。場合によっては、空に賽銭を投げる。神仏に祈るというやつだ。」(p.341)

兵に正あり奇あり。
庄九郎は奇を用いたにすぎない。(p.379)

庄九郎は、人間に運命があるとは思っていない。シナ渡来の甘い運命哲学などは弱者の自己弁護と慰安のためにあるものだと信じている。
 庄九郎は運命を創らねばならぬ側の人間だ。シナ人のいう運命などがもしあるとすれば、徒手空拳のこの庄九郎などは死ぬまでただの庄九郎でおわらざるをえないではないか。(p.419)


〈二〉
 庄九郎は、目標を二つ樹て、すべての勢力と知恵と行動を、それに集中した。(p.9)

 男子の鉄腸を溶かすのは女色しかない。(p.78)

 見えざる人の悪罵をあれこれと気にやむような男なら、行動が萎える。とても庄九郎のような野太い行動はできない。この男の考え方、行動が竹でいえば孟宗竹のようにいかにもふとぶとしいのは、心の耳の具合が鈍感になっているからであろう。革命家という、旧秩序の否定者は、大なり小なり、こういう性格の男らしい。(p.180)

 将になるほどの者は、心得があるとすれば信の一字だけだ。(p.200)

「世に大望を持つ者が、足もとの利をむさぼると思うか」(p.225)

 天文、天象を判断して的中せしめ、それをもって行動を起こすものを英雄というのだ。(p.226)

― 要は力だ
 かねがねおもっている。庄九郎は徹頭徹尾力の信者であった。(p.274)

世間を相手に大芝居を打つほどの男は、なまなかな俳優(わざおぎ)の足もとにもよれぬほどの演技力があるのであろう。(p.303)

 敵地での合戦は速戦即決がよく、長陣になると不利であることを知っている。(p.363)

― 人間とは、
と庄九郎とほぼ同時代のヨーロッパに戦国時代に出た策略家ニコロ・マキャヴェリは、五箇条を持って定義している。
一、恩を忘れやすく
二、移り気で
三、偽善的であり
四、危険に関しては臆病で
五、利にのぞんでは、貪欲である
(中略)
だから、第五条の利を与えるために、今日の山崎屋の巨富をどんどん美濃へ運びこんで懐柔し、かつ、第五条の臆病という人間性に対しては、
「従わねば、敵として討つ」
というおどしをもってむかった。(p.382)

マキャヴェリはいう。
 ― 君主というのものは、愛せらるべきか、怖れらるべきか。これは興味のある命題である。常識的に考えれば両方兼ねるがよいということになろうが、その域に達するのは困難なことだ。だから君主にしてそのどちらか一つを選べということになれば、愛せられるよりもむしろ怖れられるほうがよく、またそのほうが安全である。(p.383)

人間は、つねに名分がほしい。行動の裏付けになる「正義」がほしいのである。(中略)
庄九郎はこの合戦を、
「謀反人討伐の義戦である」
 との護符をばらまいた。人間に偽善性に訴えた。(p.383)

「城というものは、城兵が結束さえしておれば、たとえ土掻きあげた土塁一重、堀一重の城でもたやすくは陥ちぬものでござる。ところが、内部の結束を崩せば、城などは雪のように融けてしまう」(p.393)

 韓非子には、『人の君主たる者は、家来に物の好きこのみを見せてはならぬ」というくだりがある。家来がすぐにそれに迎合するからだ。(p.400)


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